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東原庠舎

多久家4代邑主茂文は、学問を好み尊崇した人で、元禄12年(1699)学校を建て、孔子像を校内に安置する。この学校が鶴山書院とも呼ばれ多久の最も誇れる文化の殿堂、多久邑校東原庠舎だ。実に、佐賀鍋島本藩の藩校弘道館設立(天明6年・1781)より82年も前の事である。朱子学派の学校で、教授、助教授を含む職員は10数名、生徒約200名。漢字を主として、和学、筆道、和算、武芸を学んでいたようだ。侍以上の子弟は、8歳から25歳までを学令として「文武の間を修め得ざれば、家督相続を得ず」と修学を相続の条件とし、藩士の子弟教育が第一にあげられている。しかし、「東原庠舎学制」の最後の項には、「百姓町人といえども、志次第、師範へ申し達し、学舎道場へ相勤むべき事」と付記して、士族以外の者の入学を許していることは注目される。 竜造寺の分家である多久氏が、もともと陪臣であったはずの鍋島家の筆頭家老として、本藩の財政貧窮を救うために邑祖竜造寺長信の封地3万3千石を8千5百石になるまで返納したことから、多久邑の財政は苦しく、邑民の生活は極度に貧困であった。そんなに経済的に苦しい中で、邑主は庠舎を興し、聖廟を建てた。他藩より優位に立ち、本藩の筆頭家老としての重責を務めるには、邑民より広く人材を取りたてなければならなかった苦肉の策だったのだろうか。しかし、このような邑主による邑民教育の結果、「多久のすずめは論語をさえずる」「多久にくれば百姓は鍬をおろして道(道理)を説く」とか、学問の地・昼夜ともに明るい仙人の住むところという意味の「丹邱」という美称で呼ばれ、幕末から明治にかけて多くの人材を輩出することとなる。特に明治維新を迎えると、庠舎で学んでいた若者たちは、他藩の若者と同じく洋学に志し、外国へ目を向けていくこととなる。 電気工学の最高権威者として電気学会を設立し、無線電信の発明に功績のある我が国初の工 学博士、志田林三郎は英国グラスゴー大学に学ぶ。明治政府にあり刑法を草案した 鶴田斗南は仏国パリ大学のボナソワールのもとで学んだ。また森鴎外の「独逸日記」の中に出てくる飯盛挺蔵はドイツ.フライブルグ大学にて物理学を学び「微量天秤」による研究で学位を受けている
東原庠舎
(とうげんしょうしや)
とうげんしょうしゃ