志田林三郎 画像

 志田林三郎とは、19世紀後半にあって、今日の電気通信システムのほとんどを予見した多久が生んだ先覚者です。


 彼は、浦賀にぺりー提督が来航した翌々年(1855年)肥前国多久邑(たくゆう ・現在の佐賀県多久市)に生まれ、子供の頃から、平方根 ・立方根の難題を即座に解き神童といわれました。多久邑校、東原庠舎で漢字を学び、12歳で論語や孟子などの難しい漢籍を読みこなしたと言われています。
 その後、工学寮(現在の東京大学工学部)に入り電気学を学び、1879年首席で卒業しました。日本における工学博士第一号の誕生です。1880年イギリス ・グラスゴー大学に国費留学しましたが、現地の新聞で天才ぶりが激賞されています。また、学生時代から、軽気球の製作、東京=甲府間の電信線路建設、導電式無線電話・・・・様々な優れた業績を上げ、研究者として天才であったと同時に、今日風にいえばシステムプランナーと言えるでしょう。
 1883年電信局に勤務し、工務部門を主宰し、かたわら帝国大学工科大学教授等を兼務し、電信電話事業に意欲的に取り込みますが、1892年に38歳で惜しまれながら早逝しました。博士は電気学会の設立を提唱し、1888年の第一回総会で、電気学の歴史を概観した上で将来の展望について述べました。この演説で提起した技術を現代の言葉に変換してみると、無線電話/ラジオ ・テレビ/長距離送電/電車の普及 ・蒸気機関車の衰退/テープレコーダー/電磁波測定による地震予知、作物の収穫予想・・・・などに相当します。データー通信や光通信を示すと思われる言葉も見られます。


☆百年も前に予見した技術が今ほとんど実現している事に驚かされます。
志田 林三郎誕生の地

多久市東多久町大字
別府寿司銀の前

林三郎誕生の碑