孔子とその弟子、そして継承者―四哲

 孔子を祭祀する聖堂は、すべて一律に四哲と称する四人(四配)の像が安置されているかどうかは知らないが、多久聖廟には、正面の孔子像を中心に右脇下壇に顔子、子思子、左下壇に曽子、孟子の四人の像が並んでいる。序列は顔子、曽子、子思子、孟子の順で、これは、孔子の教えが道統として継承されて行った順序による配列と思われる。
 すなわち孔子在世中の直接の弟子は顔子と曽子で、子思子は孔子の孫に当たる人で孔子の息子孔鯉の一子であり、孔子の在世中はまだ10歳に満たない子供であった。その子思子に、直接師の孔子に接したぬくもりと教えをつたえたのが曽子であり、さらにそれを継承発展させて戦国の世の諸侯の間を駆けずり回って語を強めて説いてまわったのが孟子である孔子→顔子→曽子→子思子→孟子・・・・・以上四哲へと継承されてゆくが、まだ孔子が儒教の祖として確立されてはいない。
 孟子と入れ替わりに活躍した戦国後期の儒学者荀子、その門弟の韓非子と李斯と継承されていくが、その思想と行動は孔子の理想とするものとは正反対の様相をさえあらわしている。それだけに儒教を含め、様々の思想家による自由な議論が噴出する百家争鳴の諸子百家の時代の波に洗われながら孔子の教えは次第に固まり、前漢の時代に儒教をもって国教として受容することとなる。
 なお孔子やその門弟や、それらの人々が生きていた中国春秋時代の様子などを伝えてくれた代表的な貴重な古典は何といっても「論語」と、「史記」であろう。
 「論語」は孔子の死後、その弟子たちや関係者が耳の底に止めていた孔子の言葉や、その人なりや、弟子たち相互の言葉もまじえ加えて編集された古典であり、「史記」は孔子の死後約三百五十年後、前漢の歴史家司馬遷によって編集された歴史書である。





四哲像


曽子像
孟子像 子思子像